オリンピックの開幕前にアップする予定が、もうオリンピックは閉幕してしまった。残念です。フランスのパリではオリンピックが開催されていた2024の夏。サッカー、バスケ、バレーなどの球技から、陸上競技、柔道、フェンシング、サーフィン、スケボーまで、さまざまなスポーツに触れることができた。テレビ画面を通して応援していたら、身体を動かしたくなって、グラウンドに飛び出してボールを蹴り出す……なんてことをできたらいいのだけれど、外は30℃を超えの日々であってそんなことはできそうにない。それなら、スポーツに関する本を読んで、さらにオリンピックの興奮を思い出そう。スポーツを楽しむにはルールをしっかり理解したり、お気に入りの選手の名前を覚えたりするのもいいかもしれないけれど、スポーツを取り巻くさまざまな事柄に触れてみるのもいいだろう。そうすることで、プレイの一つひとつにグッと奥行きが生まれるはずだ。
サッカーや陸上競技などを観ていて、まずもって注目してしまうのはシューズだろうか。adidas、PUMA、New Balanceなどいろんなメーカーがあるけれど、やっぱり多いのはNIKEでしょう。昨年には、ベン・アフレック『AIR/エア』というエアジョーダン誕生秘話を物語った傑作映画も公開されたわけだけど、フィル・ナイト『SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。』というNIKE誕生の物語が綴られた、創業者の自伝も最高に面白い。オニツカタイガーをアメリカで販売する権利を獲得した青年が、やがてオニツカとの関係が悪化すると、自分たちのブランド「NIKE」を立ち上げる。NIKEの由来は、ギリシャ神話にでてくる勝利の女神「ニケ」。まさに選手が履くにふさわしいシューズなのだ。『SHOE DOG』のなかで好きなのは、フィル・ナイトが走るひとであることが随所に現れていることだ。考えごとをするために、気分転換のために、走る。そのことは、ベン・アフレック『AIR/エア』でも描かれている。映画においては、誰がその靴を履くのか、ということが重要であることを示されていた。オリンピックがスニーカーの品評会になっていることなんかは当然今もそうであるし、ニコラス・スミス『スニーカーの文化史:いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか』を読めばスポンサー契約の値段も膨張を続けていることを知ることができる。プロスポーツ、そしてオリンピックが資本主義というシステムによって駆動されていることは疑いようもない。
「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)」という言葉がある。これは、祝賀的なイベントに乗じて一部の民間企業が利益を得るという仕組みを意味するものだ*1。そして、元オリンピック選手のジュールズ・ボイコフは、『オリンピック秘史-120年の覇権と利権』や『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』で祝賀資本主義を批判している。
資本主義は抜け目なく、その姿を自在に変える。オリンピックはその多彩な形態の覗き窓となる。資本主義は政治的文脈、地理、そして伝統によってその形を変える。政治経済学者のジェフ・マンの言葉は私たちが忘れがちなことを指摘している。「実際には、現存する資本主義は幅広く」、それらが同時に展開している、という。時には、新自由主義の路線に沿って経済関係が形作られるが、しかし、また別の時には、民営化、規制緩和、金融化、「市場に決定を委ねる」、といった規範に従っていない。[・・・]新自由主義の原則は確かに一部の側面では重要だが、こうした原則だけではオリンピックの政治経済学をきちんと理解できない。むしろ、われわれの目に映るのは私が「祝賀資本主義」と呼ぶ、ナオミ・クラインの「惨事便乗型資本主義」のもっと晴れやかな顔をしたいとこのようなものだ。祝賀資本主義は乗じるのは、クラインが『ショック・ドクトリン----惨事便乗型資本主義の正体を暴く』でありありと描き出したような惨事ではなく、楽しいお祭り騒ぎである。[・・・]オリンピックは社会が熱狂する瞬間に繰り広げられる。もちろん、オリンピックは誰にでも平等にお楽しみの機会をもたらすわけではない。富裕層やコネに恵まれた人々は五輪から利益を得る傾向があるが、一方で、すでに貧しい人々、周縁に置かれた人々の困窮は往々にして深まり、後戻りがきかないようにされている。オリンピックはトリクルアップ経済学の攻めの一手だが、ロサンゼルスのアクティビストたちは、そんやトリックはもうお終いだ(the trick is up)と、主張する。
ジェールズ・ボイコフ『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』39-40頁
オリンピックという大会は、資本主義の化け物だとボイコフは語る。東京をはじめとする先進国では強制退去者の数は多くないが、北京(中国)では1,500万人、リオ(ブラジル)では7万7,000人といったように、オリンピック開催にあたって強制退去を余儀なくされている。また、W杯などにおいても、スタジアムの工事を間に合わせるために過酷な労働を強いられたり、福祉に回せるはずの公金が大会に流れたりするなど、多くの批判がある。東京オリンピック同様、今回のパリオリンピックにおいても閉幕後、さまざまな問題が浮上するかもしれない。祭りが終わった後のことを注視しなければ、私たちはあまりに馬鹿にされた存在に成り下がってしまうだろう。しかし、オリンピックが無くなれば、その競技そのものが危ぶまれるマイナースポーツがあることもまた事実だろう。オリンピックを無くすのではなく、運営を透明化し、スポーツの祭典としてのより良いあり方を模索しなければならない。そのために、一度オリンピックをストップさせなければならないのであれば、それも必要な決断なのかもしれない。
また、今は戦争ともいえない大虐殺の最中にいるということも忘れてはならない。そのなかで平和の祭典にどのような大義があるのか。現在、必死に啓蒙を続けている岡真理さんは、『中学生から知りたい パレスチナのこと』でこう語っている。
ユダヤ人のジェノサイドと同じように、ガザのジェノサイドが進行している今、私たちはテレビやスマホの画面越しに毎日それを目撃し、認識しています。壁一枚の代わりにモニター画面の向こうでジェノサイドが起きていることを私たちは知っています。ですが、画面のこちらでは、まったく別の平和で安らかな生活がある。あの当時、アウシュヴィッツの大量殺戮によって犠牲になった者たちの財産や金歯、頭髪その他が「資源」として活用されていたように、たとえば2021年の東京五輪では、半世紀以上にわたる占領の下でパレスチ人の人権剥奪と抑圧に蓄積されたイスラエルのセキュリティ技術というものが活用されました。伊藤忠商事と日本エヤークラフトサプライのイスラエル軍事企業エルビット・システムズ社との契約は、この間、市民の皆さんが反対の声を上げ、精力的に活動することによって停止に追い込まれましたが、そうしたビジネスによって日本企業が収益を上げ、その恩恵に日本社会に生きる私たちが少なからず与っていたということになります。
岡真理・小川哲・藤原辰史『中学生から知りたい パレスチナのこと』42-43頁
「平和」とはなんなのか。平和が争いに関与しないことによって、成立するのだとしたら、それはあまりに暴力的なことだろう。パリオリンピックには、イスラエルも出場しており、日本代表もグループステージで対戦するのだ。私たちはどう生きるべきか、考えなければならない。
さまざまな競技を観ることができるオリンピックにおいて、それらの競技の違いを楽しむなんてことをしてみるのもいい。河内一馬『競争闘争理論:サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?』では、スポーツを「競争」と「闘争」という2つのキーワードを用いて分析している。そしてそれを使うとこんなふうにスポーツを分類できる。例えば、①個人競争(短距離走、ゴルフ、フィギュアスケートなど)、②団体競争(陸上リレー、競泳リレーなど)、③個人闘争(ボクシング、レスリング、柔道など)、④団体闘争(サッカー、バスケ、ラグビーなど)、⑤間接的個人闘争(テニス、卓球など)、⑥間接的団体闘争(野球、バレーボールなど)という感じだ。そして、④においてだけ日本は世界のトップと渡り合えていない、と指摘する。なぜなら、特にサッカーというスポーツは、「闘争」に分類されるはずなのに、日本は「競争」してしまっているからだという。サッカーというものがどのようなスポーツであるのかを「競争闘争理論」という独自の理論によって明らかにしていく過程は、実にエキサイティングである。サッカー好きだけでなく、あらゆるスポーツ好きにおすすめできる本だ。また、今回、バスケ男子代表がフランス戦において、大逆転されるという展開があった。ラスト、4点リードしておきながら、河村勇輝がファウルを取られた場面だ。試合後には、「誤審なのではないか?」と写真が出回ったが、これも「競争」「闘争」というキーワードによって理解することができる。要するに、「競争」とは他者からの影響を受けず自らの能力を最大限に発揮できるスポーツ、一方で「闘争」とは他者に影響を与えることを許可されており邪魔されながら自らの能力を発揮しなければならないスポーツであるのだ。
「闘争」のスポーツは自分の能力を最大限に発揮すれば良いものではない。相手がいて成り立つのであるから、その相互作用の影響を考えながらプレーする必要がある。ここにおける影響には、「演技」や「見せ方」も含まれるのであって、河村勇輝は、フランスの巧みな「影響」を受けてしまった。フランスは「闘争」であることをより深く理解していたのかもしれないのである。
サッカーにあまり興味のないひとは、W杯を優勝するほど強かった“なでしこジャパン”が、なぜ最近は弱いのかと率直な疑問を抱いているかもしれない。それも「競争闘争理論」によって説明がつくので、ぜひ本書を読んでほしい。海外の女子サッカーには闘争としてのサッカーを体現している選手が多くいる。その筆頭は2019年に女子バロンドール、FIFA女子最優秀選手賞を受賞しているミーガン・ラピノーだろう(今回のオリンピックにおいて、彼女が観客席で応援している姿がカメラにキャッチされていた)。彼女の自伝、『ONE LIFE ミーガン・ラピノー自伝』もおすすめだ。彼女は、同性愛者であることをカミングアウトしており、自らLGBTの権利擁護活動にも積極的に参加している。これらのブランディングもまたある意味で「闘争」といえるものだ。
オリンピックや競技スポーツは、男子・女子という区分によって運営されていることがほとんどだ。しかし、そのセクシュアリティに内包されない性自認をもっている人はどのように競技スポーツとの接点を持つのかということについて考えを深めるのも重要である。今回、女子ボクシングにおいて、男性の染色体(DSD(性分化疾患))をもった女子ボクサー、イマネ・ケリフ選手が、トランスジェンダーだと誤認され、世界中から誹謗中傷されたことが問題となった。
岡田桂・山口理恵子・稲葉佳菜子『スポーツとLGBTQ+シスジェンダー男性優位文化の周縁-』では、近代スポーツというものが男性中心的に発展し、男性の身体的資質のみを前提に形づくられ、それが有利に働くように制度化されてきたことを明らかにし、井谷聡子『〈体育会系女子〉のポリティクス: 身体・ジェンダー・セクシュアリティ』はそのような近代スポーツのなかで、女性アスリートがどのように生きてきたのかを探っている。また、大会開催中に話題になった、諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』も読んでおきたい。競技スポーツにおけるジェンダーの課題としては、どこまで公平性を担保し、男子・女子という区分を乗り越えられるのかということについて考え続けることが重要になる。オリンピックというスポーツの祭典において、それはさらに求められるのだろう。
公平性という点において、その議論にもっとも挙げられるのはドーピングという行為だろう。しかしながら、ドーピングというものが公平性という概念にどれだけ影響を与えているのかを突き詰めて考えないことには、正しい批判とはなり得ないだろう。まずは、ミサ・ジャン=ノエル/ヌーヴェル・パスカル『ドーピングの哲学』やエイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』をおすすめしたい。また、昨年、ユヴェントスに所属するポール・ポグバがドーピング違反をしたとして活動禁止になった際に書いたエントリーも読むと何か掴めるかもしれない。
「ドーピング」を考える---ポール・ポグバの活動禁止に寄せて - KINOUNOKYOUkinounokyou.hatenablog.com
公平性という点でもうひとつ。スポーツクライミングの森秋彩選手が、154cmという身長のために、最初のホールドが高い位置に設定されていた第1課題で何度も助走をつけて壁へ登ってもホールドを掴めなかったという問題があった。果たしてこれが故意的に行われたのかはわからないけれど、世界各国が出場する平和の祭典において、西洋発祥のスポーツのルールをどこまで許容するのかは議論の余地があるだろう。柔道やボクシングに体重別が導入されているように、身長別も必要なのか。女子、男子という区分を乗り越えることは、競技スポーツにおいてできるのか。難しい議論は続けられるのだろう。
堀米悠斗が圧巻のステージを見せた東京オリンピック。そして、そのステージはパリオリンピックでも続くこととなった。堀米は、競技とストリートを両立することが難しい3年間だった、と終了後に語った。スケボーという文化において、もしかしたら一生懸命やること自体が敬遠される場合もある気がするのだけど、街中でムービーを撮影しスケボーに乗り、市政の人々にとっては迷惑者でありながら、その類いまれなるスペクタクルで最終的には観客を魅了もしてしまうその姿こそがスケボーという文化を形づくっているようにも思えてならない。スケボーの名著、イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市』はどうなっただろう。平岩壮悟さんが、今年の夏には晶文社から刊行予定だと言っていたのだけれど、続報がない。
ストリートという文脈においては、パリという美しい街並みを走り抜けるという点で、マラソンにもストリートを感じさせるものがあった。他の競技が世界共通のルールを徹底したスタジアムでプレーするなか、マラソンはオリンピックが開催される都市によって、走るコースが変わるのである。今回は、最も過酷な急勾配の坂がランナーの前に立ちはだかった。そして、それを乗り越えて、赤崎暁と鈴木優花が入賞した。しかしながら、右大腿骨疲労骨折のため欠場することになった前田穂南がその坂をどう登ったかは見たかったのも事実である。将来、前田穂南が自伝を出すことがあれば、この時のことについて振り返って欲しいものだ。今はまだ何もいうことができないだろう。
オリンピックを見ていて思うことは、やはりアスリートは市井の人々のそれとは根本的に異なるということである。努力では乗り越えられない、何か天性の身体感がある。このエントリーの最後は、蓮實重彦が『スポーツ批評宣言-あるいは運動の擁護-』という本の中で語っているものを引用して終わります。
スポーツに愛されていない人が、スポーツが好きだからというだけの理由で必死に演じてみせる身振りは、ほとんどの場合、目を蔽わんばかりに醜い。アマチュアであることも、それを許容する条件とは到底いえないでしょう。その醜さを何とか克服しようと必死に練習をくりかえせば、誰でも人並みの技術ぐらいは身につけることができる。だが、それでもスポーツに愛された人の演じる身振りの美しさには永遠にかなわないのです。[・・・]理にかなった練習によってすぐれた選手が誕生しはする。だが、それは、意志の問題でもなければ、精神の問題でもありません。スポーツに愛されていながらもそのことに無自覚だった者が、何かのきっかけでその愛に目覚め、あるとき優れたスポーツ選手へと「化ける」だけなのです。
蓮見重彦『齟齬の誘惑』219-220頁
・フィル・ナイト『SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。』
・ニコラス・スミス『スニーカーの文化史:いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか』
・ジュールズ・ボイコフ『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』
・河内一馬『競争闘争理論:サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?』
・ミーガン・ラピノーだろう。『ONE LIFE ミーガン・ラピノー自伝』
・『スポーツとLGBTQ+ -シスジェンダー男性優位文化の周縁-』
・井谷聡子『〈体育会系女子〉のポリティクス: 身体・ジェンダー・セクシュアリティ』
・諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』
・ミサ・ジャン=ノエル/ヌーヴェル・パスカル『ドーピングの哲学』
・エイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』
・イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市』
・蓮實重彦『スポーツ批評宣言-あるいは運動の擁護-』
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*1:
東京五輪 祭りの代償「祝賀資本主義」にNOを 中島岳志 | 東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/126479