昨日の今日

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コスタリカ戦が終わった

ランニングをして、コスタリカ戦の40分前に帰ってきた。2〜3週間前は結構寒い日もあったのだけれど、最近はそんなに寒くないので良い。快適だ。19時から試合が始まる。ドイツ戦の時は2時間前くらいからソワソワしていたのだけれど、今日はとても落ち着いていたので、まあ普通にやれば勝てるだろうと無意識に考えていた、油断していたのだと思う。でも、そうはならなかった。そう、そうはならなかったのである。キックオフ20分前、舞城王太郎ディスコ探偵水曜日

を少しだけ読み進める。なかなか難しいのだけど、心地よく読めてしまう文体が舞城王太郎であるなあと思う。カッコいい文体ですよね。並行世界というキーワードで東浩紀クォンタム・ファミリーズ』を想起してしまうし、主人公の語り口には『STEINS;GATE』的なものがある。あとは舞城王太郎が脚本を務めた『ID: INVADED』にももちろん似ている。相対性理論量子力学。難しいですね。ふんふんと読んで、キックオフ5分前、日本代表グループリーグ2戦目、コスタリカ戦が始まる。

開始早々に相馬が左サイドを縦に抜いて、クロスをあげる。おっ、いい感じかなあと思ったけれど、その後はのらりくらりと微妙な雰囲気になってくる。ある程度ボールは持てているけれど、何か明確なコンセプトを持たない森保JAPANの“らしい”試合になってくる。始まって20分くらいの印象としては、キャンベルを筆頭にコスタリカのフィジカルめちゃ強い…と唸ってしまった。1対1で身体をぶつけても厳しそうだなあ、と。けど、コスタリカの攻撃に脅威はない。日本の攻撃にも脅威はない。まあ、でも前半はこれでいいんだろう。

21分、カメラに鎌田大地の姿が撮らえられる。ダメだ…というように頭をふり、天を仰ぐような仕草を見せる。その1分後、相手のロングボールを山根がヘディングで返し、そのセカンドボールを拾いに行った鎌田がうまく胸で収めることができずタッチが大きくなり、相手のサイド攻撃へと繋がってしまう。鎌田はそのまま相手についていきプレスをかけ、大事にはならなかったのだけれど、フィジカル的についていくのがキツそうに見えなくもなかった。そして、そのプレーを見た本田圭佑が「鎌田さんのパフォーマンスめちゃ気になりますね。感覚的に良くないかもしれないですね、本人的にも。明らかに調子良くないです」と指摘した。38分くらいには、相馬からの縦パスを空トラップして流してしまっていた。鎌田の調子が攻撃に多分に影響を及ぼしてしまうこともあったろうけれど、全体としてゆったりしすぎていた。コンセプトの欠如が問題であった。あっという間に前半が終わる。45分。

長友に代えて伊藤洋輝を出して、後半頭から3バックへの可変も意識したような4バックを森保監督は選択する。両サイドの山根と相馬を高い位置に。ドイツ戦で冨安を出してからボールの循環が良くなった形を採用したのだろう。しかし、伊藤洋輝は冨安ではないし、前半から多少の改善は見られたものの、少しだけ外に開きすぎていてウイングにつけるボールに角度が足りていないこともしばしばあったし、左足で上手いこと身体を開いてトラップできていないこともあった。コンセプトを設定しそのための「原則」を付与してこず、「人」で解決していた森保JAPANの弱点がここで露呈する。しかし、これはギュンドアンミュラーが下がったドイツもそうであったように、代表チームで構造を作って、スタイルを確立していくのは難しいことなのだろうと思う。

そうであるから、日本は「人」で解決するしかない。幸い、日本には三笘がいるし、伊東もいる。2人にシンプルに預ける。そのための環境づくりをする。けれど、「人」が活躍するためにも「環境づくり」、つまり、「コンセプトの設定と原則」が求められるのであった。大変である。

森保監督は山根に代えて三笘、堂安に代えて伊東をピッチに送り出すのだけれど、外に張った三笘にうまく預ける原則がないし、伊東を2トップの一角に置くことを選択したことで伊藤の長所を活かせない。フォーメーションも完全に3バックになり、攻撃に行こうという意思表示もされるのだけれど、しかし、その攻撃への意思表示とは裏腹に攻撃デザインの無さも強く打ち出されることになる。結果論ではあるけれど、相手が引きスペースが無いなかで伊藤純也がボールを受けるよりも、外で縦に突破してくれる方が相手にとって脅威になっただろう。魔法が解け、ドイツ戦での名采配は偶然の産物に過ぎなかったことが眼前に突きつけられる。つまるところ、やはりコンセプトは皆無であり、どうやって点を取るのか、その共通意識は定められていなかったのだった。

ここで、河内一馬『競争闘争理論』

からいくつか引用してみることによって、試合を整理したい。まずは攻撃コンセプトの必要性。

(攻撃→攻撃へのトランジション。つまりどこでスイッチを入れるのかということには)チームあるいはグループとしての“合図の役割を果たすイベント”が求められる。例えばそれを「あるプレイヤーにボールが入った時」のように人に依存させる、「FWにボールが渡った時」のようにポジションに依存させる、「サイドレーンにボールが入った時」などと空間に依存させる、または「相手センターバックDFラインから離脱した時」のように相手の振る舞いに依存させることなどによって、故意的に、あるいは自然発生的に共通認識を持つことができるようにする必要がある。

このように考えると、「ボールの持ち主が変わる時」という合図は、最も客観的に認知ができる、“分かりやすく意思をもてる(意思統一ができる)瞬間”として機能する。p233

コスタリカ戦、日本のボール保持時に目立ったのが意思のない、なんとなくのボールの横移動であった。どこでスイッチを入れるのか、誰にボールが入った時に攻撃→攻撃へのトランジションをするのか、その共通意識がないのがあまりに残念であった。どこでスイッチを入れるのかのデザインもないのだから、これでいこう!という攻撃のコンセプトもない。ドアの前で鍵を探し、家に入れず立ち往生する人間のように、困り果ててしまう選手たち。そこに鍵を差し出すのが、監督なのであり、森保監督であった。しかし、そのアイデアを提供することは私にはできないと明言しているし、選手たちに任せていたのであれば、その環境づくりは必要不可欠である。そのための方法論的なものを実行しているのが、2018年にロシアW杯を制したフランス代表やジダン監督時代のレアル・マドリーであった。彼らが用いていたのが「エコロジカル・アプローチ」と言われている。エコロジカル・アプローチとはコーチ側からトップダウンで指標を具体化していくようなプロセスではなく、プレイヤー個々、あるいはその個々が集団となった時に発生する相互作用(関係)を環境(≒制約)によって表出させ、ボトムアップでゲームの在り方を定めていく(定まっていく)ようなプロセスであり、個人による意思とその共有によって「自己組織化」が求められるのであったp235。

ここで私が主張したいのは、そのような「自己組織化」は、プレイヤーが持つ「意思」がなければ、そもそも起こり得ないということである。サッカーは、“何もしないでも良い(成立する)ゲームであることを忘れてはならない。相手ゴールと相手ボールに対して、何がしたいのか。そういった強い「意思」に特定の制約をもたらすことで、サッカーというゲームにおけるプレイヤーの「自己組織化」が行われていくのである。

前述したチームが、仮にエコロジカルなアプローチでトレーニングを行っていたり、あるいはゲームモデルのデザインを行っていたりしたとするならば、間違いなく、各プレイヤーが培ってきた「意思」があり、それを「コミュニケーション」として機能させることができる能力や経験を持つプレイヤーが揃っていて、その上で、抽象的な指標(ゲームモデル)をチームとして(トップダウンあるいはボトムアップで、また人為的あるいは自然的に)共有していたはずである。そしてその指標(ゲームモデル)は、「どの意思を持ってプレーするか(=どの「局面」でどの「フェーズ」をつくるか)を定める最低限の役割を担っているはずだ。しかし、それでも、チームがうまくいかなくなった時や、ピッチ上でリーダーシップを発揮できるプレイヤーがいない場合、あるいはそもそも「自己組織化」を期待できるほどの時間と環境がない時などは、“極めて具体的な指標を設けていないこと”がマイナスに働くこともある。だからこそ、この手の仕事はコーチにとって、複雑で繊細なのである。p235-236

森保監督は選手の自主性を重んじて、“任せていた”監督であった。ドイツ戦の逆転劇は偶然にもそれが当たったわけだけれど、今回のコスタリカ戦においては全くといって機能しなかったわけである。それは4年間という時間を用いたにもかかわらず「自己組織化」するための努力を行わなかったからであり、つまり、「どの「局面」でどの「フェーズ」をつくるか」という意思共有を行なっていなかったからである。試合終了直後、世間では、伊藤洋輝が三笘にボールを供給しないことが議論の対象になっていたけれど、果たして彼だけの問題なのだろうか。森保監督、また、日本チームとして、強い「意思」に特定の制約をもたらすことで、「自己組織化」することの重要性を認識していただろうか。三笘は強い「意思」に基き、ボールをよこせと要求することはできなかっただろうか。それらを森保監督は伝えていただろうか。

コスタリカに先制点を決められた直後の解説・本田圭佑の言葉が印象的である。

もうちょっとこの時ね、画面に映ってないですけど選手が話し合ってないんですよね。もっとこの時、全然オッケーていうふうに顔を合わせなきゃいけないです。[・・・]全員がパッションを見せないといけないです。一個一個のプレーをちょっとずつリスク負うみたいな、良い意味で余計なことをやるみたいなのを全員が見せないといけないです。それってパッションを見せてかないとできないプレーなんですよ。もう一歩運ぶとかね。[・・・]焦っていいんですよ。焦らないとダメです。その焦りを良い方向に変えないと。

本田圭佑が言うこともまた、パッション(意思)とその共有(コンセプト)であるだろう。そして、本田は「三笘にあずけろ」と何度も言及する。しかし、伊藤洋輝は三笘に預けることなく、バックパス、中への楔、横パスへと終始してしまうのだった。それはなぜか。本田圭佑のパッションというもの、そして、その共有がなかったからであり、それによって認知の差が埋まらなかったからであるだろう。

まったく同じ場所かつ同じ条件でボールがある(相手プレイヤーが保持している)とする。プレイヤーAはそれを視覚的に「認知」した結果「危険である」と判断したが、プレイヤーバーは「危険ではない」と判断する場合がある。その場合、まったく同じものを「認知」しているはずであるのに、「実行」には違いが出てしまう。前述したように「認知」はサッカーにおいてコミュニケーションとして機能しない。そこで重要になるのが「危険な状況である」あるいは「危険な状況であった」とチームメイトに“伝える”ために「感情を表出させる」ことである。p247

この認知の差を選手間の感情によって埋めること、その「エコロジカルなアプローチ」を目指していたはずの日本、また森保監督。しかし、それは機能しなかったし、そのための準備がされていたのかも疑問が残る。W杯後の検証が求められるでしょう。まー、しかし、結果論である。

ドイツが決めきれずに日本に負けたのと同じようにして、今回の日本の敗戦を語ることはできないように思う。ドイツは枠内に良いシュートを飛ばしていたけれど、権田に塞がれてしまった。しかし、コスタリカ戦の日本は枠内に良いシュートを飛ばせていなかった。決めきれなかった、ということはないだろう。決定的なチャンスを作ることができなかった、結局のところエコロジカル・アプローチによる攻撃のデザイン、そのためのパッションがなかったのだ。「競争」ではなく、「闘争」であるサッカーというスポーツである。果たして、スペイン戦では闘うことができるのか。まだ読まれていない方は、河内一馬『競争闘争理論』をぜひ読んでみてください。おすすめ!私は森保一プロサッカー監督の仕事-非カリスマ型マネジメントの極意-』

を図書館で借りてきたので読もうと思います。「脱トップダウン」と言っていたのはもうずっと前のことからなんですね。いやー、でも勝つんだろうなあと思ってしまっていたよねー。厳しいねー。

『鎌倉殿の13人』第45回「八幡宮の階段」を観る。白い雪に染まる血液。公暁による実朝の暗殺。そして、公暁もまた殺される。三浦義村が義時に対して「お前は力にしがみつくしかなく、怯えきっている」と言うように、まさに『ゲーム・オブ・スローンズ』的な、権力を持つ者すべてが弱い展開に。強い者による玉座争いではなく、弱い者による玉座争いは悲劇にしかならない、と。玉座に座る者はどこにもいない。それでは…という最終回が近づいてくる。もうずっと悲しいのだけど、めちゃ面白い。面白すぎる。

『ニューヨークのニューラジオ』には、結婚を発表したけいちょんが乱入していた。【ゲスト:けいちょん(極楽とんぼ 山本圭壱)第189回】ニューヨークのニューラジオ 2022.11.27 - YouTube けいちょんとニューヨークの組み合わせほんとに好きだ。楽しい。

 

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