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「ホットギミック」と「堕落論」と「愛がなんだ」

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 「ホットギミック ガールミーツボーイ」の主人公、成田初は、自分自身に自信がなく遠慮がちで、亮輝や梓の要求に応えて、自らの意思よりも先に相手を優先させてしまう女の子だ。けれど、あることをきっかけに初は自分がバカであると認める。

どうしたら、バカじゃなくなるの?テストの点数が良くなったら?

 初は亮輝に問いかけ、バカでいたくないと願う。亮輝は読んでいた「堕落論」を初の頭の上に置き、そして、その本は初のもとに落ちる。そのあと、初は亮輝、梓、凌の3人に迷わされることになるが、物語のラストで答えのようなものを見つける。

(亮輝)おれ、お前にあったせいで、明日のこともわからないバカになったんだ。ブラックホールに入っちゃったみたいに。

(初)うれしい、どうかバカでいたい。

(亮輝)うん、絶対にバカのままでいよう。

(初)ずっと、バカのままでいたいね。

 本作に登場する坂口安吾の「堕落論」を引用してみよう。

自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく落ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

 坂口安吾は、第二次世界大戦直後の混迷した社会に、戦前戦中の倫理観を冷徹に否定し、新たな指標を示した。

人間は堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 堕ちきるところまで堕ちることによって自分自身を発見することができる。そうなって初めて、自らの中で新たな規範をつくり、主体的に生きることができるのである。

 堕落をバカに置き換えているのが、「ホットギミック ガールミーツボーイ」であるといえるだろう。初と亮輝は堕ちきったとはいえないまでも、バカでいることが、自分自身の指標をつくる上で最善であるのだと見つける。

 山戸結希監督の映画は、美しいカットが魅力的だ。しかし、本作はそのカットがとても多い。余韻に浸る間もなく、次々とカットが切り替わっていく。映画が撮影と編集によってつくられるものであるとするならば、「ホットギミック ガールミーツボーイ」は、まさに編集による比重が大きいように思える。ジャンプカットの連続による推進力にはどんどん引き込まれていくし、そのカットがどれも美しいことには感嘆せざるを得ない。山戸結希監督作品の魅力を再認識し、次回作を待望せずにはいられないのである。

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 今年4月に公開され、ロングランヒットとなった「愛がなんだ」に登場するナカハラ(若葉竜也)は葉子(深川麻衣)と恋愛関係はあるものの、どこか隷属的な印象を抱いてしまうほどに、自らの意思がなく、葉子に従順であるのだ。しかし、物語の後半、ナカハラは葉子と決別し、写真という、彼の進むべき道へと歩んでいく。まさに、ナカハラは自分自身を発見したのだ。ナカハラが堕ちきることには、葉子との日々が必要だったのだろう。その後、葉子がナカハラに会いにくるが、ナカハラはもう葉子との恋愛関係において、奴隷にはならないと結論づけてしまいたい。ナカハラは自分自身を見つけ、救済されたのだから。

(ナカハラ)幸せになりたいっすね

 また、「愛がなんだ」の主人公テルコ(岸井ゆきの)は堕ちるところまで堕ちてはいるのだが、テルコはいつまでもマモル(成田凌)のことしか見えないのである。冒頭のテルコとラストの象の皮膚の寄りも視野の狭さを表しているが、最終的に自分自身も見えなくなってしまう。堕ちるところまで堕ち、自分自身の中で指標をつくるのではなく、マモルの中に自分自身を見つけてしまうのである。どこか説得力を持ったこのラストに、どうしようもない魅力と切なさが同居している。

(テルコ)どうしてだろう。私はいまだに田中マモルではない。

 答えが出ないまま、ぐるぐるとしている感じだ。なんだかわからないこの感じを消化するためにも今泉力哉監督作品を観ていくしかないのである。