昨日の今日

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高橋名月『左様なら今晩は』

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今となっては唯一、外の世界と繋がれる場所じゃけえ

同棲していた恋人に振られた陽平(萩原利久)の部屋に、突如現れた幽霊・愛助(久保史緒里)はベランダのことをそう定義する。部屋から出ることのできない愛助だけれど、ベランダは部屋の一部であり、唯一、外の世界と接することができる場所なのだ、と。そんな汀(陸地と水際の境界線)のような場所で、波のように行ったり来たりする穏やかな会話を繰り返し2人は心を通わせていく。ベランダにいる2人を背後のショットで撮らえ、小さなスペースにギュッと寄り添い合うような画面設計で2人だけの親密な空間を表現しているのも見事だ。

愛助が越えられない一線である欄干にもたれて隣り合わせで会話する2人、そんな2人の間にもある一線は、陽平の同僚・果南(小野莉奈)との夜を挟んで、向かい合うショットの視線の交わり、そして、「触れる」「触れられる」というモチーフで破られようとする。幽霊と人間としての関係が混じり気のない恋愛劇のそれのように作用させてしまっている脚本がいいし、過去に残してきた後悔という感情をポジティヴに表出させる久保史緒里の表情の演技も素晴らしい。また、幽霊をそこに存在させてしまえる板倉陽子の撮影も随所で発揮されており、白眉のひとつであるといえるだろう。

主題とも共振する“足”への描写が強調されることで、愛助が人間として過ごせるようになった日々が映し出される。しかし、それはたったの1日だけのことであり、心残りを果たした愛助は部屋から、そして、この世界から去っていくのだった。陽平は、愛助の本当の正体、名前を不動産会社から聞き出し(君の名は?)、お墓参りをする。喪失感というよりも、夢だったんじゃないかと疑ってしまうほどの呆気なさを抱えるのだけど、ラストシーンにおいて陽平は何年後かに、愛助と訪れることが叶わなかった映画館を訪れるのだった。そして、そこには輪廻転生の果てに女子高生の姿となった愛助がいるのであり、結果として2人はスクリーンを並びあって見つめることに成功するのである。室内劇を中心とした本作が、他者と並んでスクリーンを見つめるという映画館という場所で終わることは、昨今の状況に対しても示唆的であると深読みしてしまいたくなる。日々すれ違い、過ぎ去っていく時間のなかで、心が通い合う誰かがきっといること、いると思えること。『映画館と観客の文化史』にて、加藤幹郎は劇場で映画を観るということは共同体構築力であると言及しているp289。

久保史緒里ということで、彼女が所属する乃木坂46君の名は希望』という楽曲は少なからずとも想起してしまうだろう。

僕らの足跡は続いてる
君の名前は”希望”と今知った
もし君が振り向かなくても
その微笑みを僕は忘れない
どんな時も君がいることを
信じてまっすぐ歩いて行こう

乃木坂46君の名は希望

陽平と愛助の夢のように豊かな日々は終わってしまった。しかし、陽平は劇場へと足を運んだのであり、スクリーンを見つめることにしたのだ。“愛助はいたのだ”と信じることで過去を振り返るのではなく、この胸の中にいるのだと信じてともに未来を歩んでいくために。開かれた場所がどんどん失われていく今日において、映画館という空間は、「今となっては唯一、外の世界と繋がれる場所じゃけえ」であるのかもしれない、というのは大袈裟にしても考えてしまうのだ。