昨日の今日

KINOUNOKYOU

お笑いとテレビと映画と本と音楽とサッカーと…

宇野常寛『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』

f:id:nayo422:20221109194643j:image「水曜日が休みになると1年365日がすべて休日に隣接する」という提案によって、「労働」から「活動」へ移行した日々の豊かさを綴った書籍が『水曜日は働かない』である。文章を書き、都会の街中を走り、相棒のT氏とお喋りをするという何気ない日々が豊かな筆致で描かれている。冒頭の幾つかのエピソードを読んでいるうちに漠然としたイメージなのだけれど、村上春樹みたいだなあと思ってしまった。文章を書き、走っているからというなんとも雑な連想なのだけれど、過去作を辿ってみると、前作の『遅いインターネット』にて村上春樹のこんな言葉が引用されていた*1

〈僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。(中略)いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる〉

村上春樹『僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉(毎日新聞2008年5月12日掲載)

人というのは何かしらの枠組みの内側に入っていないと不安であり耐えられない。しかし、その枠組みを自律的に作り出しているのではなく、外部が作り出した囲い込みにあってしまっているのであれば、一時的な不安感からは離脱できるのだけれど、もはやその枠組み自体から抜け出すことは難しくなってしまう。インターネットの相互評価のゲームに囚われ、真の問題ではなく、問題についてのコミュニケーションに躍起になってしまうだろう、と。しかしながら、人間には枠組みが必要なのであって、もはやインフラと化した現在のネットワークから離脱するのが難しいことはほとんど自明である。であるから、その枠組みの中でいかに自律して、真の問題へと接触していくのか。それがゆっくり「読む」こととしっかり「書く」ことの往復を要請する〈「遅い」インターネット〉を目指すことであった。

10月に刊行された『砂漠と異人たち』では、『アラビアのロレンス』を参照し、身体と精神の分離の場所としての砂漠を〈外部〉として消費してしまったロレンスが、自由のために逃れたはずの〈外部〉に囚われてしまったことを指摘している。

人間はときに〈外部〉を必要とする。自由であるために。いや、自由であり得ると信じるために。

『砂漠と異人たち』173-174頁

「人間は〈外部〉を求めることで、むしろ閉じた場所から出られなくなるのだ」p176という受け入れ難い事実は現在の私たちが外部とのコミュニケーションを求めた結果、インターネットの情報空間に囚われてしまうことと重ね合わせられるだろう。では、ロレンスはどうすれば良かったのか。それはロンドンやオークスフォードの内部において砂漠(外部)を発見する必要があり、「ここではない、どこか」ではなく、「ここ」に砂漠を発見しなければならなかったのだ、とp182。インターネットの内部に「遅さ」を作り出すように、自らのホームタウンに「砂漠」を発見する。そうすることで初めて、私たちは自由への手がかりを掴むことができるのだ、と。

『水曜日は働かない』という宣言もまた枠組みの外側に出るものではなく、その枠組みの内部において砂漠を作り出そうとする活動であった。水曜日が1週間の1番「内側(真ん中)」であることが何よりの証左であるだろう。そこにおいて、気持ちよさそうに街中を走る宇野常寛の姿が村上春樹のようだと感じたのだけれど、『砂漠と異人たち』では、村上春樹宇野常寛の「走る」運動の捉え方の差異について言及されている。速さ(記録)に拘泥するのか、走ることの身体性に喜びを得るのかだ。この何かに依存するような態度が現在、小説家として巨大な暗礁に乗り上げてしまっていることを暗示しているのではないか、近作に感じる違和感に通じているのではないか、という指摘は興味深い。村上春樹にとって、社会課題から距離を取ろうとするデタッチメントからその反対のコミットメントに移ろうとするときの根拠が個人的な一対一の関係なのであって、共同体の精神的な囲い込みから逃れようとするためにむしろ外部の個人に依存してしまう。それは走ることにより個人の身体性による快楽を享受するはずが、その外部の速さ(記録)に拘泥するようになることで精神的な囲い込みにあうようなものだろう。「ある「精神的な囲い込み」を回避するために、自分ではないほかの誰かに依存することそのものに罠が潜んでいる。そのことを、村上春樹の小説の行き詰まりは示しているように思えるのだ」p223。村上春樹の歴代著作の場合、それは女性に対して役割として背負わされていたものであった。しかし、『女のいない男たち』で逆説的に示されているように、「男のいない男たち」というものを主題にしてみれば、精神的な囲い込みにあわない対等な他者との関係によって、コミットメントできるのではないかp246。

村上春樹は速さと目標を通して自己を強化していくことで、外部に出るのではなく、走ることに囚われている。ロレンスも砂漠のなかで自由な自己を確立するのではなく、そこに囚われてしまった。そのため、内部においてゲームから離脱する必要があったのだった。そして、それは空間的にではなく、時間的に外部に接続することが要請される、と。

僕たちが走る世界に外部があるとするなら、それは時間的な外部しかない。そこでは、空間的な外部は消失し、時間的な外部だけが存在する。そこでは、その土地に刻まれた自分の想像力を超えた時間の痕跡だけが、外部の存在を示唆する。それは閉じたネットワークの内部に存在する穴として機能する。歴史に「見られる」ことで、僕たちは時間的な外部に接し、自立の手がかりを掴むことができるのだ。

『砂漠と異人たち』299頁

どういうことか。それは、インターネットのタイムラインの速さに身を任せるのではなく、あくまでも自らの興味関心に従って、自らの手で物を作ること、文章を書くこと、読むこと、そうしてできたものでコミュニケーションを取ること。それは、自分の物語を発信するだけでなく、事物を通した他者の物語によって、変化、変身してしまうような、「人間の意思で完全にコントロールすることはできない」p311「庭」のような回路をも持つことであった。その煩わしさ、「遅さ」のなかで豊かさを享受すること。ゆっくりと街中を走り、運命などないその空間を発見すること。走っても走っても「ここじゃない、どこか」へは辿り着かない。しかし、それで良いのだ。だって、

「遅い」からこそ、僕たちはどこまでも走り続けることができる

『遅いインターネット』215頁

のだから。

*1:宇野常寛『遅いインターネット』53頁

海になりたい。「2022.9-10」

『チェンソーマン』ノンクレジットオープニング / CHAINSAW MAN Opening│米津玄師 「KICK BACK」 - YouTube 9月のまとめはとばしてしまった…ので今回は9と10の合併号という感じで記録を残しておきたい。1ヶ月というのはあまりにあっという間で悲しい。もう今年も終わるし、きっとすぐ死ぬのだ。『チェンソーマン 』アニメも始まって、もう4話まで来ている。最高なのだけれど、しかし、なかなかにツルツルしすぎているのが気になる部分ではありますね。これは慣れの問題であるだろうけれど、漫画での何が何だかわからない描写の連続を期待していたから、綺麗な作画だあと思ってしまった。まあMAPPAであるし。血がたくさん出ているので素敵ですね。オマージュと消費の速度に関しては難しいところだ。しかし、米津玄師『KICK BACK』も結局好きなのだよなあ。藤井隆『Music Restaurant Royal Host』も最高。ロイヤルホストの店舗限定冊子をゲットしていないのが心残りなので、どうにかしてゲットしよう。

Here Is Everything

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The Car

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The Big Moon『Here Is Everything』めちゃ好きでしたし、嶋佐が好きなバンドArctic Monkeysの『The Car』もたくさん聴いたし、なによりヒゲダン『Subtitle』を聴きすぎている。ドラマ『Silent』良いですね。難聴というものでは『オレンジデイズ』があるわけで、久々に再見したくなった。何回も言ってるかもしれないけど妻夫木聡かっちょええよね。

そろそろW杯でもあるので、サッカーの話をしよう。最近のベストゲームは天皇杯決勝のヴァンフォーレ甲府vsサンフレッチェ広島だろう。劇的な、あまりに劇的な試合で感動した。途中出場のベテラン山本がハンドしてPKを与えてしまい、それを河田がセーブするのとかあまりに劇的。そして、PK戦までもつれ込んだ、最後の最後のキッカーが山本であるのとかドラマティックすぎるでしょうよ。感動しました。ユヴェントスはまあまあ微妙な感じだけど上手くハマればW杯明けに上向きそう、アーセナル強し、リヴァプールはゆっくりと調子上げていければって感じだろうか。あんまり話すことないですね。サッカーちゃんと観れたないのだ。悲しい。

テレビは『じゃないとオードリー』が素晴らしかった。機嫌良く生きていた方が周りも幸せになりますよね。『キングオブコント』はビスブラ優勝。ビスブラずっと強かったので当然っちゃ当然の優勝だったのだろうか。個人的にはクロコップが最高だったなあ、と。最後のヘリに乗り込むとこらとか最高!わたしはマヂラブ『シャドウ』なんかも大好きなので、これ系は好んでしまう。ニッポンの社長がビリになって、ニューヨークと絡みが増えたのも嬉しい誤算だ。『ラヴィット』ではニューヨークのネタやってくれたし、ぜひともツーマンライブやってほしい。f:id:nayo422:20221111143409j:image『ラヴィット』って本当になんでもやってくれるので楽しい。年末には特番決まったようだし、今年の最後にお祭りが待っているのは励みになりますね。しっかし、『キングオブコント』の開始直後にはカトチエの『オールナイトニッポン0』一夜限りの復活告知があったので、なんだかかなりソワソワしてしまって、正直ネルソンズとかちゃんと観れていなかった。

10月22日は、ニューヨークに会って、その夜に『朝井リョウ加藤千恵オールナイトニッポン0』を聴くという2016-2018年に戻ったかのような日だった。ああ、私のポップカルチャーの黄金期はここだなあ、としみじみしてしまった。ニューヨーク『今更のはじめまして』発売記念お渡し会に行った。f:id:nayo422:20221105123431j:image5年以上前の出待ち以来にお喋りできたので嬉しい。ふたりとも鍛えたからか体躯がしっかりしていてめちゃカッコよかった。嶋佐さんに「嶋佐さんのフリトーク好きなので、たまにはフリートーク話してほしいです!」と伝えられたので良かった。それと「世界一モテないみたいな扱いされてますけど、むっちゃカッコ良いですよ」と言ったら、「いやモテますよ、モテてますから、めっちゃモテてます」と言っていた。そうだよな、めちゃモテだよな。そんなこんなであっという間に「はい、ありがとうございました〜」と剥がされてしまった。出口付近にはにマネージャーのオガさんがいた。『ニューラジオ』で「OKです!」をやってくださいというリクエストが少しずつあったことを話していたけれど、なるほど!と膝を打ちました。私もリクエストすれば良かった。いつか私も「OKです!」を浴びたい。

朝井リョウ加藤千恵オールナイトニッポン0』は6年半前となんら変わらないお腹弱いお喋りクソ野郎朝井リョウと政治力の片鱗を見せるカトチエのテンポ良いトークの応酬で楽しかった。f:id:nayo422:20221105125052j:imageジングルもハイライトを厳選したもので最高でしたね。すぐさま記憶が蘇ってきて私の血肉となっていることを実感したし、これが毎週あったなんてとても幸福なことだったのだなあ、と深夜の身体に染み渡った。カトチエのフリートークのなかで、印象的な部分は

加藤「(小沢健二)25年好きでライブとかにもちろん行ってたけど、こうやって近距離になったことはない」
朝井「今後もあるかわからない…」
加藤「そう。今後あるかわからないし、この歳になってくるとさ、人って死ぬな…って思うようになるじゃん」
朝井「いやあ、わかりみ〜」
加藤「わかりみでしょ?マジで」
朝井「本当につまらないことを言いますけど、私たちコロナで考え方変わって〜」
加藤「いや、つまんなくないよ笑、本当あるよね、それも」
朝井「ある。正直ある」
加藤「会えるって当たり前がなくなってきてるから」

のところだ。私も「もうすぐあっという間に死ぬのだろうなあ」と思うことが増えたし、仲の良い友人とも会える日が減ってきていて本当にこれで良いのか…?と感じることもある。2人はこの6年で結婚して、子どももいて、となると尚更考え方の変化はあるだろうし、私の人生も6年経ってるのだなあ、となんだかじーんとしてしまったのだ。ほんとに時間は存在しないんですかね。

朝井リョウのフリートークはチョン・セラン的であった。火事の起こったマンションでの一夜の出来事。『フィフティ・ピープル』

のような趣を感じた。普段顔は見えないけれども、確かに隣接している他者との邂逅というテーマが面白おかしく話されていた。朝井リョウは小説家であるけれど、やはりどこか喋る人としての認識があるので、ぜひともいろいろとお喋りしてほしいのだけれど、『正欲』を出した今、無闇矢鱈なことは言えないとは思うし、大変である。過去放送をオールナイトニッポンJAMに追加してほしいという声がたくさんあがっていたけれど、どんな文脈でキャンセルされるかわからない現代において、過去放送を提供するのは怖い部分もあるだろうな、と思う。しかし、6年のブランクは確かにあるのだな、と感じるシーンも多くて、朝井リョウが「コネです!」と言ったあとのカトチエの「縁です!」が無かったりしたのは少しだけ寂しかった。朝井加藤のエントリーを書こう!と思ったのですが、労働になりそうだし、すべての録音を聴き返す労力とかがしんどすぎるのでやめました。

本のこと。小説は小川哲『地図と拳』しか読めていないのだけれど、この分厚い鈍器のような1冊をじっくり読めたことはとても幸福な読書体験でありました。加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読んだので結構すんなりと物語に入り込むことができた。歴史的記述形式の大河であるので“物語”を求める人にとっては退屈な部分もあるかもしれないのだけれど、キャラクターの個性や関係性などは胸熱なところもたくさんあり良かった。個人的に好きなシーンとしては高木の退場らへんだろうか。あっ、ここで死んでしまうのかというあっさりした退場とその後の登場の仕方もさらりとしていながら感動的なものがあった。宇野常寛『水曜日は働かない』は今年のベストエッセイだと思う。『ゼロ年代の想像力』しか読んだことがなかったので、こんなにも美しい文章を書く人だったのか!と感嘆しました。私も走ろう!という気持ちになる。読むか迷っていた『ファスト教養』もちゃんと読みました。読後、何故だかものすごく頭が痛くなったのだけれど、“ファスト教養について”というよりはサンデルなどの問題意識と関係している“正義論”的な感じでした。私も大人になった時に、こうした大人になっていたいですねと思った。中村文則も声をあげていく人だ。新自由主義的な勃興の仕方も『自由対談』のなかで語られている。『ラディカル・デモクラシーの地平』は立ち戻るための本として大切になりそう。良き本です。

ノムラララ『夏の魔物』はずっといいし、『ブランクスペース』はよきところで完結しましたね。『ひらやすみ』はずっと最高。漫画ってシーンにあるものをすべてチェックするの難しいですよね。なので、吉川きっちょむさんとか漫画めちゃ読んでいる人すごい。最後にまた例によってYoutubeのリンクを貼っておきますね。

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レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』

f:id:You1999:20221001174803j:image第六章にいくまでかなりつらい読書体験である。本当につらい*1。読んでいるだけでこんなにもつらいのだから、書いているレジーさんはもっとつらいのだろうな、と思う書籍が『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』である。とにかく短い時間で摂取したいと映画を早送りし、書籍の要約されたYouTubeを視聴する。それが単なる趣味的な知的好奇心によって促進されていれば良いのだろうけれど、このファスト教養というものの歯車が駆動されている原理が他者からの目配せによってであることが気にかかることなのだろう(そんな他者の視線は本当はないのかもしれないのだけれど)。であるからして、それは自己成長だけでなく、脱落したものへ排他的である新自由主義的な価値観を内面化してしまうのでは?自己責任的な空気と結びついているのでは?というのがレジーさんの問題意識である。だから、本書は『ファスト教養』と冠されているけれど、“ファスト教養について”の話ではない。その周縁にある社会の話となっている。

新自由主義的な価値観へと駆り立てられてしまう不安感というものが本書では挙げられているのだけれど、同時にこれは新帝国主義的なものでもあるのだと思う。勝者以外はどうでも良く、それは努力してこなかったからだという新自由主義的な価値観を、“強者が”不安感を抱える人々に植え付けその人の土地を奪っていく。競争しているのではなく、競争させられているというのに近いのかもしれない。みんなで競争しているように見えて、実際のところは強者による植民地拡大的自己啓発を内面化させられてしまっているように感じる*2。なので、それに最適化するためのファスト教養的な成長への邁進(効率的な差別化)は当然受け入れることはできないし、しかし、かといってそれに抗い、自らの土地を奪われないために鎖国すること(根源的な内省)p192もよりよい処方箋とはなり得ないだろう、と。それは自己啓発的なものにあまりに耐性がないと、『花束みたいな恋をした』の麦くんが一気に自己啓発的で新自由主義的で新帝国主義的な価値観に土地を奪われたようになってしまう可能性があるからだろう(耐性がないからこそむしろ、というのはあるかもしれない)。そうであるからこそ、「自己啓発ではなく知識」が必要だという結論はその通りなのだと思う。理想的な、いわゆる「古き良き教養」にこだわるのでもなく、効率に最適化するのでもなく、その間を探っていこう、と。中間を探っていくためには「知識」が必要なのだろう、と。

そして、「知識」がない状態で「知識」に嗅覚を研ぎ澄ますには、無闇矢鱈にトレンドを追わずに「好きを見つける、好きを続ける」p201という姿勢がポイントになるのではないだろうか、という提案は納得感があるように思える。好きを見つけて突き詰めていく過程で、自由になっていく(千葉雅也『勉強の哲学』)。しかし、その「自由」というものによって枠組みの外へと外れてしまうことの不安感にもレジーさんは寄り添っている。自由には責任が付帯され、現状ではその前に“自己”がつけられるのだから。

「既存の枠組みから自由になること」と「既存の枠組みの中で戦える知識の習得から逃げないこと」の両輪を回すことが、ファスト教養に抗いながら、ビジネス的な要請に応えていく「ポストファスト教養の哲学者」なのではないか。p210

 

「好きを見つける」ということに関して、レジーさんがポップミュージックに興味を持ったときのエピソードはなかなか示唆的であるように思える。

もともとポップミュージックに興味を持ったのは「小学五年生の頃クラスの友人が自分のまったく知らない言語で会話していて、それが当時はやっていた音楽についての話だった」のがきっかけだった。p206

「学校」というワードはとても重要だろうし、特に小学校、中学校などはさらに大切になってくるだろう。そこには、めちゃ勉強ができる子もいるだろうし、勉強が苦手な子もいるかもしれない。スポーツが得意な子もいれば、苦手な子もいる。音楽が好きな子もいれば、嫌いな子もいる。教室の隅っこで漫画を描いている子もいれば、塾の参考書をガリガリ解いている子もいるかもしれない。みんなそれぞれに習熟度が違って、でも、一応みんなのペースで同じ教室で勉強をしなければならないし、校庭で体育をやったりしなくちゃならない。体育祭や文化祭に参加しなくちゃならない。各々がどう感じているかはわからないけれど、しかし、一応“みんなでいっしょに”やらなければならなかったのだ(もちろん良くない側面は多分にあるわけで個性を大切にする枠組みをつくることも重要ではあるけれど)。そんな学校という空間には偶然性がたくさんあり、友人の会話を偶然聞いたレジーさんがポップミュージックを好きになっていくという過程はとても素敵なことだと思う。そして、共生していくことを学んでいくのであった。

自分が「その人であった可能性」について思いを馳せるというのは、社会の大きなつながりの中に自分を位置づけることに他ならない。このつながりのあり方について参考になるのが、吉野源三郎君たちはどう生きるか』である。 主人公のコペル君が百貨店の上階から眼下に広がる人々の流れを目にした時の「人間て、 まあ、水の分子みたいなものだねえ」という感覚と、それに対する叔父さんの「ほんとうに、君の感じたとおり、一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きているんだ」という回答は、人はだれしも相互作用の中で生きていること、そしてたとえ誰かと差がついていてもそれは「波」の中で生まれる一時的なものだということを雄弁に伝えてくれる。p219

それがいつの間にか、高校、大学を経て、新自由主義的な価値観を内面化するようになり、淘汰されていくものは努力していないなどといったことを言及してしまう人が現れるようになる。果たして、学校的な空間へと戻るにはどうすれば良いのだろうか。そのことは、本書でも触れられているような、マイケル・サンデル『実力も運のうち』や政治学者・中島岳志「利他プロジェクト」p217が掲げる問題意識に繋がる部分があるのではないか、と思う*3。「その人であった可能性」を、社会を見つめる必要がある。

そこで、10月27日放送の『マヂカルラブリーANN0』で野田クリスタルがHUNTER×HUNTER』『チェンソーマン』『ONE PIECE』の話をする中で、その面白さを共有したい!と思い

学校行きたいっす、僕

2022/10/27『マヂカルラブリーANN0』

と言っていたことは、そのことに対する処方箋になりえるかもしれない、とすこし思った。レジーさんのエピソードのような、誰かの「好き!」が偶然、誰かに繋がり、「好き!」をまた呼び起こす。野田クリスタルが「学校に行きたい」と思ったように、ポップカルチャーにはそういった力があるのだと思うわけである。共有したい、と。そして、これがファストではなし得ない繋がりになるのではないだろうか、と。かつて、いろんなひとがいたあの空間に行きたい、と。みんなで話したい…!という喜びの分かち合いを求めたくなるのが、ファスト教養ではなしえない、根源的な教養の、ポップカルチャーの持ちうる力だろう(無理やり摂取した嫌いなものじゃなくて、好きなものを共有したいでしょうよ)。ファスト教養によって得たもので、どれくらい他者と話したくなるだろうか。

無駄なことを一緒にしようよ

SMAP『JOY‼︎』*4

無駄な寄り道をしながらも、ひとりではいけないところへ、みんなとなら辿り着けるかもしれない。強制的に協力し合おうなどということではなく、なんとなくでも、私はこの社会で生きているのだなという実感が必要だろう。とりあえず、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』を読んでどう思った?という雑談から始めてみるのが良さそうだ。

余談として。サッカーのところはとても興味深く読みました。サッカー選手としての本田圭佑は大好きなのだけれど、近年のこととか、槙野智章の例の件とか、そこらへんに及んでいくと確かに、うーん…という感じのところはある。誤った競争社会への言及として河内一馬『競争闘争理論: サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』がありますので、ぜひ。サッカーに興味のない人も面白く読めると思います。刊行記念にたくさんの対談をレジーさんはされていましたが、私は河内一馬さんと対談するべきだと思っていますー。

 

*1:つらいのだけれど、世代的に実感が伴わないところも結構ある

*2:競争しないほうがいいというわけではなく、自律的な態度であるのか?ということ

*3:このときに、123頁でも取り上げられていたようにベーシックインカムがケアとしても用いられるかも知らないのだけれど、このままの論理ではケアにはなり得ないだろうということには同感である。なぜならそれは承認の問題が解決されないからだろう

*4:本書では、SMAP『JOY‼︎』が取り上げられているけれど、SEKAI NO OWARIRPG』も文脈にあいそう。

「方法」という悪魔にとり憑かれないで
「目的」という大事なものを思い出して

LE SSERAFIM (르세라핌) Documentary『The World Is My Oyster』

f:id:You1999:20220918050611j:imageデビューメンバーが確定せず選考が続けられるなか、候補者たちのハードなレッスンは続けられていく。刻一刻とデビューは迫っているのだ。IZ*ONE出身のSAKURAとCHAEWON、『PRODUCE 48』に参加していたYUNJINが確定的となるなか、バレエ留学先から挑んだオンラインオーディションに見事合格し、メンバーの1人として抜擢されたKAZUHAによる影響を受けたのか、HARUKAがグループから去ることになってしまう。その後、最年少EUNCHAEも加入することになるわけだけれど、エピソード01においてHARUKAの退場というトピックは強く印象に残るものであるように思える。しかし、私たちはこれよりもはるかに複雑であり、極めて重要な退場があったことを知っている。まったくの初見者であれば特段何も思わないのかもしれないのだけれど、このドキュメンタリーが明らかに不自然なトリミングが施されたビデオであることは認めざるを得ない。“初めからいなかったのだ”とする運営の編集とは裏腹にLE SSERAFIMのデビュー曲『FEARLESS』は“いなかった”ことにされてしまった彼女による宣言「一番高いところへ私は届きたい」から始まっている。LE SSERAFIM FEARLESS OFFICIAL M/V - YouTube LE SSERAFIMにとってトリミングできない最も重要なこの宣言はこの先もずっとインターネット上においても、グループにおいても鎮座することになるわけである。このドキュメンタリーから排除された退場シーンによって、「THE WORLD IS MY OYSTER」というLE SSERAFIMの強烈な欲望は儚くも否定されているように思える。「世界はわたしの思いのまま」にはならないのである。しかし、それでも「世界はわたしの思いのまま」と切実に欲望するのがLE SSERAFIMの重要なモチーフになり得るのだろう。

グループ名「LE SSERAFIM」とは、世間からの視線に惑わされずに恐れることなく、前に進んでいくという強い意志が込められた「IM FEARLESS」をアナグラムさせたものである。いつのまにか品行方正であることを求められてしまうアイドルという存在にとって、人間としての欲望(三大欲求)があることの宣言は切実であり、しっかりと表明しておかなければならないことであるのだと思う。そしてまた、それはもちろん承認にまつわる欲求も含むことになるのだ。しかし、欲望というテーマにおいて、承認欲求と自己承認欲求のアンビバレントな関係性をも両立しながら受け入れざるを得ないという難しさも残されることになる。「世間からの視線に惑わされず、恐れることなく前に進んでいく強い意志」という自己承認による世界の頂への挑戦と、他者から承認されなければ世界の頂へは登れないというアイドルシステムの矛盾がぶつかる。であるからして、これはエピソード03における出来事のように嫌悪感漂うシーンとして顕在化してしまう。暗黙の了解としてみんなが飲み込んでいるこの矛盾をドキュメンタリーに映し出す必要性は確かにあったのだろうと思う。アイドルというシステムにおいては、「THE WORLD IS MY OYSTER」には決してならないのだろうか。ならないのだ、と言ってしまえばもはやそれまでなのだろうけれど、その矛盾を抱えた上で、LE SSERAFIMはその欲望を宣言している。私たちがそれを承認することは関係があるのか、たとえファンであってもそんな他者からの眼差しには惑わされず突き進んでいくのか。これは見られる側だけでなく、見る側の責任も求められるだろう。

2022年10月17日、SOURCE MUSICからリリースされた2枚目のミニアルバム『ANTIFRAGILE』はこの矛盾と対峙しながらも強さを押し出していく楽曲であったのだけれど、しかし、LE SSERAFIM (르세라핌) Documentary 『The World Is My Oyster』の最終エピソード04のラストシーンは涙が溢れ出る弱さをも感じさせるシーンで終えられているように、「強さ」にも複層性が付与され始めている。『Impurities』がそれをよく表しているだろうし、『weverse magazine』『ANTIFRAGILE』カムバック・インタビューでSAKURAはこう答えている。

文字通り「ANTIFRAGILE」ですね。足りないところを見せることで、逆説的により強く自由になるような。
SAKURA:人間だから当然ミスもしますし、上手にできないこともありますよね。私も長い間、活動してきただけに、「あの時は私が上手にできなかったな」と思う瞬間があります。そういう瞬間を受け入れることが私の「ANTIFRAGILE」ではないかと思います。誰でもミスは振り返りたくないし、忘れたいものじゃないですか。ですが、それも自分が歩んできた道だから、すべての瞬間を認めて愛さなければならないと思います。小さな成功とミスが積み重なって、今の私がいるわけですから。

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ドキュメンタリーラスト、ユンジンの産声のような泣き声がLE SSERAFIMの誕生を告げる。まだ生まれたばかりなのである。「強い欲望」が宣言されるLE SSERAFIMの楽曲とは違って、このグループの本当の魅力は、5人がわちゃわちゃとキュートに戯れる様子であることも事実である。これからどのようなコンセプトへと成長していくのか、どのようにして「一番高いところ」へと登っていくのか、注目したい。

河内一馬『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか? 』

f:id:You1999:20221028112452j:image海外でプレーする選手も増え、選手の質に関して言えば世界との差というものはどんどん縮まってきているはずなのに、日本は何故、サッカーというスポーツで世界と渡り合えないのか、ましてや2021-2022年のW杯アジア最終予選で苦戦してしまったりするのだろうか、という疑問を感じずにはいられない、昨今の日本サッカー界への不信感が募ったモヤモヤした心を、「それは“闘争”ではなく、“競争”をしてしまっているからだ」という結論でもって晴らしてくれる本が、鎌倉インターナショナルFC(神奈川県社会人サッカー2部リーグ)監督、河内一馬著『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか? 』である。

まずもって数多あるスポーツを分類し、サッカーという競技の定義を徹底的に突き詰めることから本書は始める。ノエル・キャロル『批評について』から引用し、カテゴライズすることの意義を訴え、日本人は「サッカー」という競技を分類ミスしてきたのだ、と主張する。

「闘争」と「競争」という二つの軸を用意して、「闘争」を「相手に何らかの妨害を加えたりして影響を与えるもの」、「競争」を「自分の技術を最大限発揮するもので、相手に妨害を加えるなどすることを許されていないもの」と定義づけるのだ。さらにそれを細かく6分割にし、①個人競争(短距離走、ゴルフ、フィギュアスケートetc)、②団体競争(陸上リレー、競泳リレーetc)、③個人闘争(ボクシング、レスリング、柔道etc)、④団体闘争(サッカー、バスケ、ラグビーetc)、⑤間接的個人闘争(テニス、卓球etc)、⑥間接的団体闘争(野球、バレーボールetc)とスポーツをカテゴライズする。そして、④においてだけ日本は世界のトップと渡り合えていない、と指摘する。それは、「闘争」にカテゴライズされているはずのサッカーというスポーツで、日本人は「競争」をしてしまっているからではないか、というわけだ。なるほど。

ここで例外として、W杯2011で優勝を成し遂げた女子サッカーが挙げられるのだけれど、それはその時の女子サッカーは競争という枠組みに分類ミスされていても、まだ個人の技術による競争によって勝利を収めることが可能だったからであり、欧州で「闘争」としてのサッカーカテゴライズが正当に成熟していけば、女子サッカーも勝てなくなるのだ、と。

日本の「女子サッカー」は、その他の「団体闘争」と同じように、今後世界トップの成績を残していくことは難しくなるだろう。また、それにもかかわらず、「男子サッカー」と同様に、個人として世界レベルのクラブで活躍する選手は増えていくだろう。p54

昨今の女子サッカーを見ていれば凄まじい慧眼であるように思える。各々が持つ技術を発揮(実行)する権利が保障されていれば良いだろうけれど、「闘争」という影響を受けるスポーツに成熟すれば、そのままの競争的思考態度でプレーしていては負けることは必然である。

それゆえ「練習→試合」といった自信醸成ではなく、「試合→練習」といった思考態度が求められるのであり、過度な量を追求する「競争的思考態度」によって起こる理不尽な練習や体罰は意味をなさないだろうとも言及されている。

日本サッカーで育った私が、これまで欧州のサッカーを視察して、あるいは南米に住みサッカーを学んで感じた「日本サッカーとの違い」とは、まさにここにある。私たち日本人は、“あたかも技術を発揮(実行)する権利が保障されているかのように”ゲームをプレーし(それはまるでゲーム中に技術の見せ合いをしているかのようである)、また、トレーニングを重ねるのである。p91

サッカーは影響のゲームであるため、そのための練習と試合の関係が必要なのだ。もちろん技術がいらないという話ではない。「試合よりも練習の方が良いプレーをする」日本人に対して、「練習よりも試合の方が良いプレーをする」外国人というよく言われる構図もこういったことからきているのだろう。日本人は「内的集中」によって、視野が狭まり「闘争」であることを忘れ、「競争」に認識を変えてしまうのである。練習でボコスカ外していた助っ人外国人が試合ではミラクルシュートを放ってしまうとかはよくある話ですよね。練習のミニゲームでは良い感じだけど、試合だと微妙とかありますよね。

第7章にある、サッカーにおける「良いプレーヤー」(P181)という節では、「コミュニケーションを成立させながらプレーを行える」ことが挙げられている。相手への影響だけでなく、味方への影響があるのも団体闘争であり、意思、意図の共有、そしていわゆる戦術的ピリオダイゼーション的な原則も必要になるだろう。しかし、なによりも意思がすべての基盤になるのは言うまでもない。チームとしてのコンセプトである。

鎌倉インターナショナルFCのホームページを一見してみればカッコいいと感じるだろうけれど、そのブランディングの重要性は最後の第9章“なぜサッカーは「カッコよくなければならない」のか”に記されている。「見られること」を意識し、カッコつけることによって、自らの組織を肯定し自尊心を持つ。それによってピッチでの「振る舞い」が変わり、ゲームが変わる。個人にとどまらないサッカーというスポーツであるから、自分、味方、相手、観客に向けた見た目による影響は大切だろう、と。試合後のインタビューで「〜表現する」という言葉が使われていることもそれを裏付けているだろう(ネイマール、ポグバとかめちゃカッコいいですもんね)。本書では、「見た目(センス)」は教育問題に行き当たるとして、「プロサッカーの世界(プロスポーツの世界)」は"センス"を養う時間を子供の頃に与えられなかった大人たち(スポーツに子供・青年時代を注ぎ込んだ大人たち)でいっぱいになる。つまり日本のサッカーが、個人でも組織でも"ダサい"のは、ある種、必然なのである」(p277)なんていう辛辣なメッセージが最後の最後で放たれている。そこにいる人たちは「競争」としてのサッカーによって、その立場まで登り詰めた人たちであるだろう。しかし、サッカーは「闘争」であって、これからはこれまでの「競争」では勝つことが難しくなっていく。さて、今年のW杯はどうなるでしょう。(修正も含めた)原則はあるのか、それを支える強い意思はあるのか、明確なコンセプトはあるのか、気持ちを込めて“闘う”ことはできるのだろうか。今こそ「闘争」が必要なのだ。